嵐の5人が出演している『黄色い涙』を見た時、地味な映画だなぁ、と思いました。ピカピカの人気アイドル嵐が出ているにしては、そういう派手な印象のない映画でした。
でも、見ただけでは私にはその意味までは分かりませんでした。
雑誌SWITCH5月号『Switch(25ー5)嵐-アラシノデンゴン』に、アイドルグループ嵐についてと、映画作成の経緯や、監督犬童一心氏、原作者永島慎二の長男永島志基氏、嵐5人それぞれがこの作品に寄せる思いについて、書かれていました。
(表紙には嵐5人の写真が載っているのですが、ウェブ上には隠した画像で出すようです。)
思い切り、子供には(まだ子供に近い?私には)分からない映画だったみたいです。『昭和』という時代について、とても考えさせられました。
『黄色い涙』は東京オリンピックの頃が舞台で、高度成長期の上り調子の世の中に乗り切れずに、作家志望、歌手志望、画家志望、漫画家志望の、夢を追いかけようとしてうまくいかない若者の映画です。1人だけ、この4人を応援する勤労青年が居ますが。
世の中はこの後、全共闘など、『体制側』を批判する若者の波が大きくなるものの、やがて若者が大人に吸収されるにつれてその波も消えていきます。そこはこの映画には含まれませんが。
映画の登場人物の5人は、上り調子の『体制』を担う側には含まれない若者たちです。
私の父は(親戚も)国家公務員で、『民間人』をバカにしていました。だから私は父が大嫌いでした。銀行員、農家など、勝手に格下に見なしていました。あからさまに『体制』を背負った、虎の威を借りる狐です。『黄色い涙』の若者達も、父から見れば格下に見たことでしょう。
私が大学に入った頃には、学生運動なんて遠い昔の出来事で日常に接することは殆どありませんでした。立て看板はありましたが、知らないままに怖いもの・危ないものというイメージで、避けていたと思います。
私は、グレたいと思うことはあったものの、そんな勇気もなく、公務員にはなりたくないと思ったものの、やはり安全を考えて大会社に就職してしまいました。
会社で過ごしてみて、公務員ほどではないものの、やはりかなり『体制側』だと思います。
全共闘で頑張ったかつての若者は、安定した生活のために安定した就職をして、自分の信念を翻してしまったような、苦さを感じることがあるのではないでしょうか。きっと『黄色い涙』をそんな懐かしさで見るのでしょうか。
でも、私はそんなものを感じないですむのです。基本的に、『体制』はまだ女をその要素として組み入れていないからです。入ってはみたものの、基本でははじかれているのです。
だから、あの映画で描かれていた若者達が、自分を失わずに体制の中で生きていくことを可能にしようとする歩みと、同じ道を歩むことができるのではないでしょうか。
私は、ただ会社の中にいて、事実のままに
「それはできません。」
と言うだけで、会社を変える必要があることを無言で示すことができます。
柔軟な制度は本来は会社を強くするために役立つのです。私には間に合わないかもしれないけれど、言うだけでも。
などと考えて元気が出ました。戦争中(硫黄島のニノ)、高度成長期、と、今を体験している嵐、すごいです。
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