日曜日, 8月 26, 2007

死を受け入れること:疲れます

葉っぱさんが突然、亡くなられたとの知らせ。 どうも、今回は、ダメです。

ネット上でのご縁があった方としては、暫く前にモモちゃんが亡くなりました。それは残念だったけれど、モモちゃんとはお会いしたことがなかったためか、まぁ、落ち込んでも数日で復活できました。

身内が亡くなった経験としては、小学生の時に祖母が亡くなりました。何にも分かってなかった。何となく怖くて、祖母が寝ていた方を向いて寝ることができなかった事だけ、覚えています。

親戚の人も何人か亡くなっているけど、骨身に染みた死別というほどではなく、お葬式から帰って来たら復活してました。

ご近所の、お世話になった小母さんが亡くなったこともありました。それは悲しかったけれど、この方は優しい方で、ご自分から、私の気持ちの準備ができるように、心遣いをして下さった。別れは悲しかったけれど、それでいいんだ、と、静かな満足を覚えることのできる別れでした。

でも、葉っぱさんは、あまりに突然。ネットの上でも、あまりに存在感のある方でした。残された遺産は多岐に渡っています。偉大です。おまけに、何度かお会いしたこともあって、そのお人柄にも触れて、自分と引き比べたりして、色々考えていました。

言いたいこと、言ったこと、まだ言わないでおこうと取っておいたことが、沢山ありました。それなのに、突然、いなくなってしまいました。

他人なのに、数回しかお会いしたことがないのに、と思っても、どうしても考えてしまい、涙が出てきてしまいます。

交差点で信号を待っていて、歩き出した時は、危ない。待っている間に放心状態になり、歩き出すと勝手に思考がそちらに行ってしまう。モモちゃんの時も、信号を渡りながら涙が出てきたことを思い出しました。

朝起きた布団の中で。トイレの中で。そんなに考えたくないので、『嵐』の載っている雑誌を買ったりCDを聞いたりして『嵐』で頭の中をいっぱいにしようとしています。が、それでも断片断片の色々な言葉が葉っぱさんに関連して浮かんできて、なぜなぜなぜ、と思ってしまいます。

何か、とても疲れます。

他人の私がこうなのに、突然大切な人を失ったご家族の方の嘆きは、いかばかりでしょうか。

ガンになって、自分が死ぬということについては結構、考えました。『ガン治癒とは死ぬ事と見つけたり』は、まだ上手に説明はできないけれど、基本的には合っていると思っています。が、自分よりも、他人が死ぬことについて、私はまだ弱いようです。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 面識の無い私でさえ1日何度かボゥッとしてしまう位、大きな存在だったんだなあと思います。でも葉っぱさんは沖縄の海と言う最高の背景の中で、次のすばらしい世界に旅立たれたにちがいない。がんという病気をテーマにして、あんなに爽やかで、有用なサイトを作ってくれた、葉っぱさんだから。
 私もあまり闘病記は読まないようにしているけれど、たしかアフラック生きる.com  http://www.aflac-ikiru.com/で以前読んだ、飯島直樹さんの、こんな言葉を思い出します。「人の幸不幸は、人生の長さじゃない。人が生まれるのも奇跡なら、天に昇るのもまた奇跡。」「葉っぱさん、ありがとう!」…あらゆる出来事、出会い、活動、そんな『普通の日常』全てが奇跡なんだ…と思います。

匿名 さんのコメント...

 ごめんなさい、先ほど1文字間違えて、飯島夏樹さんを直樹さんと書いてしまいました。訂正させて下さい。

オルゴールぴょん さんのコメント...

inkingさん、コメントありがとうございます。
人生は長さじゃない。何をやったかだ、と思うと、葉っぱさんはもう十二分に貴重なものを、優しさと共に、残してくれました。

太く短く、が彼女のやり方だったんでしょうか。事故で、ということは、神様がそうだと決められたんでしょうか。頑張りすぎ、休め、と言われているなら、葉っぱさん、納得してくれていると良いのですが。

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