祈りは届く、って言われることがありますが、それはよく分からない。
でも、祈りは存在する。それは分かる。
届かなければ意味が無いというものでもないだろう。
存在するだけでは虚しいということはなく、存在するから、意味がある。
お見舞いを言って何になるのだろう、何にもなりはしない、無力感、虚しさ、言葉を失って目を見張ることしかできない。
多くの命が失われて未だに行方すら分からない。
失われた命の一つ一つに慰めの言葉をかけることもできず、夢のように口をつぐんで向き合って止まっているだけ。
お見舞いは言わないけれど、祈ります。
大自然によって奪われた命が、それでもそれぞれの生きた日々を喜んでくれているように。
残された人々の立ち直ることを見守ってくれるように。
海に土に戻る自分を安らいでくれるように。
届くかどうか分からなくても、私に祈る力をくれるように。
2 件のコメント:
ぴょんさん、こんばんわ。
誰かが誰かのことを思う。
誰かが誰かを心配する。
自分の事を誰かが思っていてくれる。そのことを疑うこともせず、そのことを当たり前の前提としているからこそ、ぼくらは生きていけるのだと思います。
ぼくだけの事で、他の人と同じと思ってはいけないけれど、ぼくのおふくろが、ぼくのことをいつだって心配してくれている。生まれた時から今まで、これからもずっと、ぼくがぼくの子供たちを見守っているのと同じように。それこそが祈りでしょう。どうぞ、いつまでも元気でいてねって。幸せになってねって。
その見守りがなければ、ぼくらは途方にくれるばかりでしょ。だから親を亡くした子供が、ものすごく大変なんだ。だって自分を見守ってくれる人がいないんだかね。自分の幸せを祈ってくれる人がいないと思ってしまうから。
祈りこそ大前提として、ある。人が人として生きる最低の前提としてあるのだ。
幸一さん、こんばんは。
何だか自分の文章に「暗いわぁ~」って思っちゃいました。
でも地震の被害を思って暗くなっちゃった時だけでなく、親が子を思ったり、誰かの幸せを願ったりする「思い」も、存在してますよね。
ちょっとあやふやになって、そういう「思い」を信じられなくなると、希望を失っちゃうんだよね。
だからしっかり、信じなければね。
親を亡くした子供のためにも、祈りますよ、私は。実際には何もできないし、自分の子供のためにだって、何を子供のためになることをやってるんだか、怪しいんですが。
でもそれなりに、思っているし、祈っている、って、信じてほしいですね。伝わるかどうか分からないけれど、ここには存在していると思うから。
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