月曜日, 6月 20, 2011

ちっちゃいパソコンで/恐竜が鳥になったように

相変わらず、ちっちゃいネットパソコンでやってます。いつものパソコンがネットに繋がらなくなったので。ケーブルを繋ぐところが壊れたようなんです。

打つのは大分慣れたけど、写真を貼ったりする気にはならなくて。何となく内容も散漫になっているような気がします(いつももだけどね~、何だか特に)。

書く内容って道具に非常に影響されますね。

今日は普通に仕事して、普通にご飯作って、おフロに入って。

会社からの帰り道、近所のメタセコイアの木に挨拶しながら帰りました。いつもありがとう、って。

私はいつも、木々にとてもお世話になってるんです。

見守ってもらっているから。

そうだ、書いておきたいことがありました。

うちの近所で、梅雨の頃にはおたまじゃくしから蛙になったばかりのちっちゃい蛙がいっぱい出てきて、よく踏まれているのです。

蛙の身になったら、上からおっきな靴がやってきたら、まずは逃げられませんよねぇ。

でも、中には、オレは踏まれないぞっ、と考えて、えいやっと、ちょっとだけでもずれることができて、踏まれずに生き延びて子孫を残す者がいるだろうと思われます。

生物の進化がどうなっていたかちゃんと覚えていないのですが、哺乳類の祖先はどこかで両生類の祖先と同じものに繋がっていたような気がするのですが。

大昔、ちっちゃい原始的両生類が大きい動物に踏まれそうになった時、オレは踏まれないぞっ、と考えて、ぴょん、と、横っ飛びを少しでもして、踏まれずに生き延びて子孫を残す者がいたでしょうね。

原始的両生類はかえるみたいにのそのそとしか動けなかったかもしれませんが、横っ飛びの努力をし続けた者たちの子孫は足と腰の骨格がだんだんと変化して、素早く動けるようになり、原子的哺乳類の骨格になっていったのかもしれません。

鳥は恐竜の子孫だそうですが、大きな恐竜に追いかけられても諦めずに、オレは飛べるぞっ、と考えて飛ぶ努力をし続けた者たちの子孫だと思われます。きっと同じようなことが四足動物の歴史の中にもあるんです。

だからね、無情なようでも、蛙が踏まれてしまうことにも、小さな恐竜が大きな恐竜に追いかけられて食べられてしまうことにも、意味があるのです。

東北の大地震で人間が学ばなければならないのは、きっと、希望を持ち続けること。いつでも、希望を持ち続けることに意味がある、と、自然が私たちに学ばせようとしているのだと思います。

そうやって新人類が生まれつつあるのかどうかは分からないけれど。

そうなのかもしれません。

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