木曜日, 2月 15, 2007

死のイメージを克服するということ:千の風になって(その2)

一昨日、木の上で気持ちよく寝ていた息子は、私が帰った後、他の子に飛び降りろと言われて飛び降りて捻挫(もう1つのブログに書きました)。翌日の昨日は学校へ行けたのですが、今日は休んでしまいました。

お昼過ぎのテレビに、なんと、前回書いた「千の風になって」の秋川雅史さんが出演していました(と言っても我が家はテレビがないので音声だけですが)。息子も秋川さんのお話や歌に聞き入っていました。自分の覚えた歌詞と本物を比べて確認していました。

うちの子供達がこの歌を歌い始めた時、やはり私が癌で入院、手術して、今も会社を休んでいるということが背景にあるのだろうか、と考えました。でも、それ以外にも、うちの子供達に限らず、今の子供達の回りには死が氾濫しているように思います。

毎日のようにニュースでは、様々な残虐な殺人事件が報道されます。親が子供を殺す虐待のニュース、子供が親を殺したというニュースも、繰り返し届きます。理由のない無差別な殺人の犠牲になることや、子供同士での殺人事件すらあったし、いじめを苦にした自殺も何回も報道されます。子供用のマンガや映画にも「デスノート」のようなものが現れました。製作者はただ売れればいいと思っているのでしょうか。見た子供達は、浴びせられる死のイメージに自分をどう対峙させようかと、悩むというわけでなくとも答えのない自問自答をしているのです。

上の娘は時々『小説』もどきを書きますが、自殺した子の話や家族が死ぬ話を書いていたりします。これはこの子が何か特別なのだろうか、と全然思わないわけではないけれど、娘の友達が書いている小説にはもっと過激な殺人が出てきたりします。
息子の友達グループが遊ぶゲーム機の『マリオ』は、敵と戦って負けると海に落ちるのですが、勝てないと思うと自分から海に「ジサツ~」と言いながら飛び込むそうです。皆でそれを言い合って遊んでいる。

そういうことを書くこと、言うことに抵抗感がないことが信じられない気がするけれど、日々、不意打ちに送られてくる死の情報は、まともに受け止めていたら身が持たないほどの量に達していると思います。その中でそれを悩みもせずに子供達は生きていけるようにならねばなりません。

冗談やフィクションの世界で死のイメージに耐える練習をせざるを得ないのではないでしょうか。本気で考えたら、かなり過酷です。冗談にしている子達は、本気では考えられなくても、自覚できなくても実は本当はその過酷さを知っているでしょう。でもそれを克服するには、あまりに若いです。老成して達する域ではないでしょうか。

意味が分かっても、分らなくとも、「千の風になって」の歌が多くの人々に聞かれ、歌われ、子供達にも届くことは、大きな救いとなっているのではないでしょうか。昨年末の紅白で放映された後、この歌のCDは急激に売れて、今も高売り上げを続けているそうです。求められていたものだったのでしょう。秋川さんは『あき様』とも呼ばれているとか。大いに良いことだと思います。
きっと「デスノート」は忘れられるけれど、この歌は心にいつまでも残る力を持っていると思います。殺人事件のニュースにも、死のイメージを弄したマンガや映画にも、勝つ力を持ったものが1つでも多く世の中にあってほしいと思います。

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