昨日(だっけ、)訳したい本があると書きましたが、当然のように、既に訳されてました。
原題は”Taking the Quantum Leap”という本なのですが、
ブルーバックスの「量子の謎を解く--アインシュタインも悩んだ--」という題の本になってました。
この題じゃ、内容を表していないような気がするのだけど。まるで、単に謎を解いて解決したみたいに受け取らせようとしているみたい。
日本では量子論的なLeapを理解してものごとを語られることが非常に少ないです。原著は初版時には米国の”The American Book Award”を受賞したそうです。だから多くの人がこの概念を知っているのだろうし、サイモントン先生だって常識としてご存じだったでしょう。サイモントン先生が最後の訪日セッションの時に「非連続的思考が豊かなものへ導く」と仰っていましたが、こういう概念と関係があるのだろうと思われます。
でも、日本では、偉い先生方の本なども、今でもアインシュタインと同じように悩んでいるように思えることがあります。
娘の参考書の足しにと思って「量子の新時代」という朝日新書2009年発刊を買ったのだけど、多世界概念は載っているけど「隠れたパラメータ」的捕え方に見えるし、量子コンピュータが載っているのが新しいということらしく、Leapは出て来ないみたい。『波束の収縮』がある、と、さらっ、と、言及されたところがありました。非常に『”古典的な科学”的』で、怪しくない。
Leapって、怪しいんだなぁ。
そんなところ、抵抗してもしょうがないのに。量子力学ってそういうものです。
それをちゃんと訳出されているのかしらん。タイトルからも無くなっているし、受け入れられてもいない。
どうやら、量子コンピューターが出現しようかとしている現在でも、量子力学に不可欠な波束の収縮や状態遷移は、日本では先生方の間では、怪しい、と思われているらしい。
。。。日本では特許の許可をもらうのがやたらと厳しいのと似たようなメンタリティーなのかなぁ。
怪しいって言っちゃダメなんだ。アインシュタインも「そんな幽霊みたいなものはダメだ」って言ったらしい。
未知な部分について、実在に任せず頼らず主体のかかわりを引き受ける、みたいな、ね。そんなことではないですかね。物理が物理でいられなくなることにはなりますが。
Taking the Quantum Leapは、そういうことについて詳し~く書いてある本みたいなのに。タイトルにも表れていると思いますが。
引き受けたら、怪しいものではなく豊かなものにできる、のでしょう。リスクを負っていることを自覚する必要はあるんですね。物理学崩壊、みたいなことになってしまうのかな。
物理学者ではない私は、主体がかかわる余地があることを喜んでいいのかもしれません。
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